アメリカを失い、アイルランドを得て、ついには狂った。
会話のきっかけ
人生の歩み
ジョージ・ウィリアム・フレデリックはジョージ2世の孫として生まれた。イングランドで生まれた最初のハノーヴァー朝君主となり、真の英国人として自らを位置づけることになる。
父フレデリック王子の突然の死により、若きジョージは祖父の下でプリンス・オブ・ウェールズとして王位継承者となった。厳格な道徳教育を受け、勤勉で敬虔な性格を形成していった。
ジョージ2世の死去に伴い即位した。前任者たちよりも政治に積極的に関与することを決意し、「私は英国人であることを誇りに思う」と宣言してイングランド生まれの君主であることを強調した。
ジョージは結婚式当日に初めて会ったシャーロットと結婚した。二人の結婚は幸福で15人の子供をもうけ、当時の王族としては珍しく一夫一婦制を貫いた模範的な家庭生活を送った。
七年戦争の終結により、イギリスは北アメリカとインドで広大な領土を獲得した。しかし戦費による膨大な負債が後のアメリカ植民地への課税強化と独立革命の遠因となった。
議会は戦費返済のため印紙法を可決したが、これが植民地の激しい抵抗を引き起こした。「代表なくして課税なし」のスローガンの下、後の独立革命へと繋がる反英感情が高まり始めた。
英国兵が5人の植民地住民を殺害したボストン虐殺事件は、アメリカ植民地における反英感情をさらに煽った。この事件は独立派のプロパガンダに利用され、植民地と本国の溝は深まった。
レキシントンとコンコードでの戦闘がアメリカ独立戦争の幕を開けた。ジョージ3世は植民地の反乱を鎮圧することに固執し、妥協を拒否して8年間にわたる戦争へと突入していった。
パリ条約でイギリスはアメリカの独立を承認し、最も価値ある植民地を失った。ジョージは深く打ちのめされたが、この敗北を受け入れ立憲君主としての役割に専念するようになった。
ジョージは最初の重大な精神錯乱(後にポルフィリン症と推定)の発作に見舞われ、摂政に関する憲法上の危機を引き起こした。数ヶ月の治療後に回復したが、再発の影が常につきまとった。
イギリスは対フランス革命同盟に参加し、20年以上にわたるフランスとの戦争が始まった。ジョージはフランス革命の過激主義に強く反対し、ナポレオンとの長い闘争を支持した。
合同法によりイギリスとアイルランドが統合され、グレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立した。しかしカトリック解放問題でジョージは首相ピットと対立し、ピットは辞任した。
ネルソン提督のトラファルガーでの勝利は、提督の命と引き換えに一世紀にわたるイギリスの海上覇権を確立した。ナポレオンのイギリス侵攻計画は永久に挫折することとなった。
ジョージの精神錯乱は永続的なものとなり、息子が摂政王太子として事実上の統治を行うことになった。晩年は盲目で聴覚も失い、ウィンザー城で孤独な余生を過ごした。
ウェリントン公爵のワーテルローでの勝利がついにナポレオン戦争を終結させたが、ジョージはすでに病状が重く、この歴史的勝利を理解することができなかった。
ジョージ3世は長年の失明、聴覚喪失、精神錯乱の末、ウィンザー城で崩御した。60年近い在位期間はイギリス史上最長の一つであり、アメリカ独立からナポレオン戦争まで激動の時代を生きた君主であった。
