三菱財閥の創設者。貧しい郷士の家に生まれながら、明治維新の激動期に海運業で頭角を現し、日本最大の財閥を築き上げた立志伝中の人物。外国船会社との熾烈な競争に勝利し、日本の海運業を制覇した。
会話のきっかけ
人生の歩み
岩崎弥次郎の長男として誕生。父は郷士の身分を失った下級武士であった。一家は貧困の中で暮らし、幼い弥太郎は没落武士の厳しい現実を身をもって体験した。この経験が、家名の回復と立身出世への生涯にわたる野心の原動力となった。
土佐藩の有力な改革者・吉田東洋の門下生となり、儒学の古典と実践的な統治術を学んだ。この教育を通じて商業と国力強化に関する進歩的な思想に触れ、後の経営哲学の形成に大きな影響を与えた。また、改革志向の有力な武士たちとの人脈も築いた。
父が村の庄屋との争いで暴行を受けた後、弥太郎は正式な手続きで正義を求めたが、逆に七ヶ月間投獄された。この経験により、硬直した身分制度への反感が深まり、自らの能力で成功を勝ち取るという決意がさらに強固なものとなった。
土佐藩の長崎における商業活動に参加し、外国貿易と海運業の実務経験を積んだ。卓越した商才をすぐに発揮し、西洋の商慣行を学び、日本の近代化における海運業の巨大な可能性を見出した。
土佐藩の商業組織である開成館の責任者に昇進し、大阪での貿易業務を統括した。徳川幕府末期の動乱の時代を巧みに乗り切り、後の事業展開に不可欠となる商人や役人との貴重な人脈を構築した。
明治維新と藩営事業の解体に伴い、旧土佐藩の商業資産を取得。九十九商会と改称し、藩の役人から独立した実業家への転身を果たした。これが後の巨大企業帝国の礎となった。
社名を三菱商会に改め、家紋と土佐藩の柏葉紋を組み合わせた象徴的な三菱マークを採用。これが日本最大の財閥となる三菱の正式な誕生であり、当初は海運と海上貿易を主力事業とした。
日本の台湾出兵における兵員・物資輸送の重要な契約を獲得。この政府との提携は転機となり、三菱は十三隻の船舶と多額の補助金を受け、一夜にして日本の海運業界における支配的地位を確立した。
利益率の高い上海航路で米国太平洋郵船会社に対し積極的な価格競争を仕掛けた。政府の支援と容赦ない値下げにより、二年以内に米国の競合会社を日本海域から駆逐し、地域海運における日本の優位を確立した。
競争戦略を強大な英国半島東洋汽船会社にも拡大。政府補助金を背景とした同様の価格引き下げ戦術により、P&O社を日本沿岸航路から撤退させ、日本海運業の独占を完成させた。
日本最大の生産量を誇る高島炭鉱を買収し、三菱の事業を海運以外に多角化。この戦略的買収により汽船艦隊への燃料供給を確保するとともに、財閥の成長の柱となる鉱業分野への進出を果たした。
拡大する会社の金融ニーズに対応するため金融部門を設立。この機関は後に三菱銀行へと発展し、複数の産業分野にまたがる統合的な産業・金融コングロマリットを創造するという岩崎の構想を体現した。
独占的な商慣行と政府との密接な関係が政敵からの批判を招き、彼らは政府の支援を受けて競合会社・共同運輸会社を設立。この挑戦により岩崎は商業的・政治的攻撃の両面から事業帝国を守る多面的な戦いを強いられた。
日本最先端の造船施設である政府の長崎造船所を取得。この買収により三菱は重工業と造船業に参入し、日本の海軍拡張に不可欠な能力を獲得、日本の産業力の礎石としての地位を確立した。
胃癌のため五十歳で死去。日本最強の企業帝国を遺した。弟の弥之助、後に息子の久弥が三菱を世界的な産業巨人へと発展させた。日本の財閥制度と近代資本主義の設計者としての岩崎の遺産は今なお深い影響を与えている。