巧妙な戦略と外交感覚、そして冷徹な持久力でナポレオンを消耗させ、1812年の戦役を生き延びたロシアの元帥。
会話のきっかけ
人生の歩み
帝都で、陸軍の工兵将校であった父のもとに生まれた。宮廷と軍務が結び付いた環境で育ち、国家への奉仕が教育と志望を形作った。
将校養成の最高峰とされた砲兵工兵の士官学校に入った。築城術、数学、語学を学び、指揮と参謀の双方に備えた。
任官して部隊に配属され、初期の任地で教練、兵站、そして将校団における後援関係の政治を学んだ。
ロシアの影響力が争われる地域で作戦に参加した。スヴォーロフのもとで、速度、欺き、士気の重要性を肌で学んだ。
黒海の覇権とバルカンへの影響力をめぐって戦争が始まると南方戦線に投入された。過酷な遠征と疫病の中で、攻城戦と諸兵科協同の実戦を習得した。
クリミアでの作戦中に頭部へ致命的に近い傷を負い、片目を損ねて軍歴が途絶えかけた。この傷は、帝国拡大の戦場を生き抜いた古参兵としての印象を強めた。
休暇を与えられ、回復と旅行を兼ねて欧州の軍事と宮廷外交を観察した。各国の方法に触れ、戦争と国政が絡み合う現実への理解を深めた。
黒海沿岸の新領土が固められる中で前線任務に戻った。港湾と補給線を守るため、行政官や技術者と協力して南方戦略の基盤を整えた。
戦争再開により、要塞の支配をめぐる大規模作戦に参加した。陸軍、海軍、同盟勢力の調整が問われる戦場で指揮経験を広げた。
苛烈な包囲戦の最中、近接戦闘で部隊を指揮していた際に重い傷を負った。冬の苦難は、後に彼が持久と時間の力を重視する理由となった。
ドナウ方面で、河川渡河と交易を左右する要地をめぐる戦いに携わった。強襲計画や予備の運用を磨き、作戦立案の腕を高めた。
分割と反乱が交錯する情勢の中で指揮官として任務に就いた。占領統治と政治的自制の難しさを学び、強硬一辺倒ではない対応力を身に付けた。
大君主の宮廷に大使として赴任し、黒海とバルカンの勢力争いの中で交渉を担った。宮廷の派閥を読み取る手腕が、軍人であり政治家でもある評価を強めた。
オーストリアと連合して対仏戦に臨むロシア軍を率い、政治的圧力の下で拙速な会戦を戒めた。だがアウステルリッツでは連合軍が大敗し、以後の戦略に影を落とした。
敗北後の宮廷政治と指揮官同士の対立により影響力を失った。長く二線級の職に置かれ、皇帝が戦争と改革、同盟の間で揺れる様子を見つめた。
ドナウ方面の指揮を任され、フランスとの衝突に備えて早期決着を求めた。作戦は講和を後押しし、条約によってベッサラビアの確保につながった。
敵軍が深く侵入し世論の怒りが高まる中で、皇帝から統一指揮を託された。貴族、将軍、正教の世論を調整しつつ、軍の保存を最優先に据えた。
モスクワ近郊で陣地と重砲を集中させ、凄惨な損害を伴う激戦に踏み切った。戦術的には決着しなかったが、敵を消耗させて貴重な時間を稼いだ。
フィリでの評議会において、軍を救うためにモスクワを放棄するという政治的に危険な判断を受け入れた。退却とその後の火災により補給を断たれ、占領は兵站の罠となった。
正規軍、コサック、民兵を組み合わせ、荒廃した街道を退く敵縦隊を執拗に消耗させた。各地の戦闘と渡河点での圧迫が、崩壊を加速させた。
連合戦争を継続するためロシア軍がドイツ方面へ進む中、長期の負担で健康が限界に達した。任務の最中に世を去り、戦いの完結は後継者に託された。
