白いバラ。ビラでヒトラーに立ち向かい、命を落とした学生。
会話のきっかけ
人生の歩み
ゾフィー・ショルは1921年5月9日、ドイツのフォルヒテンベルクで市長の娘として生まれた。自由主義的な家庭環境で育ち、両親の民主主義的価値観は後の彼女の抵抗運動の精神的基盤となった。
ナチス政権成立後、当初は兄ハンスとともにヒトラー・ユーゲントに熱心に参加した。しかし次第にナチスイデオロギーの矛盾と非人道性に気づき、疑問を抱くようになっていった。
兄ハンスがナチス青年組織の違法活動で逮捕された事件をきっかけに、ゾフィーはナチス体制に対する批判的意識を深めた。ユダヤ人迫害の実態を知り、道徳的反発を強めていった。
高等学校の卒業試験アビトゥアに合格した。第二次世界大戦の勃発により、大学進学前に帝国労働奉仕団と戦時補助奉仕への参加を義務付けられ、全体主義体制の現実をさらに深く経験した。
ミュンヘン大学で生物学と哲学を学び始めた。兄ハンスとその友人たちによる反ナチス抵抗グループ「白いバラ」の活動を知り、積極的に参加することを決意した。
兄ハンス、クリストフ・プロープスト、ヴィリー・グラーフらとともに「白いバラ」抵抗グループに正式参加した。ナチス政権の犯罪を告発し、非暴力的抵抗を呼びかけるビラの作成と配布に携わった。
「白いバラ」の最初の4つのビラの配布に協力した。ビラはドイツ国民に対し、ナチス体制への受動的抵抗と良心に従った行動を訴え、郵便で匿名の受取人に送られた。
兄ハンスと友人たちが医学生として東部戦線に派遣された際に目撃したユダヤ人虐殺の報告を受けた。この情報は彼女の抵抗への決意をさらに強固なものにした。
スターリングラードでのドイツ軍の壊滅的敗北後、第5のビラと第6のビラを作成・配布した。「打ち倒せ、ヒトラーを!」と呼びかけ、ナチス体制の終焉が近いことを訴えた。
1943年2月18日、兄ハンスとともにミュンヘン大学の構内でビラを配布した。最後のビラを中庭に投げ落としたところを用務員ヤーコプ・シュミットに目撃され、ゲシュタポに通報された。
大学構内でビラを配布した直後にゲシュタポに逮捕された。数日間の厳しい尋問を受けたが、仲間を守るために毅然とした態度を貫き、自らの信念と行動の正当性を主張し続けた。
悪名高い裁判官ローラント・フライスラーが主宰する人民法廷で裁かれた。反逆罪と敵側援助罪で起訴され、わずか数時間の審理で死刑を宣告された。彼女は最後まで冷静さを失わなかった。
1943年2月22日、判決から数時間後にギロチンで処刑された。最期の言葉は「こんなに美しい晴れた日に死ななければならないなんて」だったと伝えられる。兄ハンス、クリストフも同日処刑された。
ゾフィー・ショルは21歳の若さで殉教したが、その勇気ある行動は戦後ドイツの道徳的復興の象徴となった。多くの学校、広場、通りが彼女の名を冠し、「白いバラ」は良心的抵抗の代名詞となっている。
