バルカンの虐殺者。ハーグで死んだセルビアの強権者。
会話のきっかけ
人生の歩み
スロボダン・ミロシェヴィッチは1941年8月20日、セルビアのポジャレヴァツで正教会聖職者の家庭に生まれた。両親は後に離婚し、共に自殺するという悲劇的な家庭環境で成長した。
高校時代に将来の妻となるミリャナ・マルコヴィッチと出会った。彼女は有力な共産党幹部の娘であり、この関係は彼の政治的キャリアに大きな影響を与えることになった。
ベオグラード大学法学部を卒業し、ユーゴスラビア共産主義者同盟に入党した。この時期から党組織内での活動を本格的に開始し、将来の政治的上昇のための基盤を築き始めた。
国営ガス会社テフノガスの社長に就任し、経済界での影響力を拡大した。西側諸国との取引を通じて国際的なビジネス経験を積み、着実に政治的野心を育んでいった。
ユーゴスラビア最大の銀行であるベオブランカ銀行の総裁に就任した。金融界での顕著な成功は彼の政治的信頼性を高め、共産党内での着実な地位向上に大きく貢献した。
セルビア共産主義者同盟の議長に選出され、セルビアの最高権力者となった。この地位を利用してセルビア民族主義を巧みに煽り、政治的支持基盤を強化する戦略を展開した。
コソボのセルビア人集会で「誰もお前たちを殴ることは許されない」と宣言し、セルビア民族主義のシンボルとして急速に頭角を現した。この演説はユーゴスラビア解体への道を開く転換点となった。
セルビア社会主義共和国の大統領に就任した。コソボとヴォイヴォディナの自治権を剥奪し、大セルビア主義を推進した。600周年を迎えたコソボの戦いの記念式典で100万人を動員した。
スロベニアとクロアチアの独立宣言を受け、ユーゴスラビア戦争が勃発した。ミロシェヴィッチはセルビア人勢力を積極的に支援し、民族浄化を含む残虐行為が各地で行われることとなった。
ボスニア・ヘルツェゴビナでの戦争において、セルビア人武装勢力を全面的に支援した。サラエボ包囲やスレブレニツァの虐殺など、欧州戦後最悪の人道的危機が発生した。
アメリカの仲介によるデイトン合意に署名し、ボスニア戦争を終結させた。この合意で彼は国際社会での孤立を一時的に回避したが、セルビア国内では領土譲歩として批判を受けた。
セルビアとモンテネグロで構成される新ユーゴスラビア連邦の大統領に就任した。この地位を利用して引き続き権力を維持し、コソボ問題への強硬姿勢を維持し続けた。
コソボでのアルバニア系住民に対する組織的な弾圧を受け、NATOが78日間にわたる大規模な空爆を実施した。最終的にセルビア軍はコソボから撤退を余儀なくされた。
大統領選挙で野党候補ヴォイスラフ・コシュトニツァに敗北し、当初は選挙結果を認めなかった。しかし大規模な市民デモにより10月5日に辞任を余儀なくされ、13年間の支配が終わった。
逮捕され、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所に移送された。人道に対する罪、戦争犯罪、ジェノサイドなど66の罪状で起訴された。現職国家元首の国際刑事裁判所への移送は史上初のことだった。
2006年3月11日、裁判判決を待つ間にハーグの拘置所で心臓発作により死去した。64歳だった。5年間にわたる裁判は完結せず、法的な評決が下されないまま彼は世を去った。
