揺るぎない民族主義者であり、卓越した組織者としてインドの藩王国を統合し、「インドの鉄人」と称された。
会話のきっかけ
人生の歩み
当時イギリス支配下のボンベイ管区に属したグジャラートのナディアドで、レウヴァ・パティダールの家に生まれた。植民地行政と地域のカースト関係に形づくられた農村社会の中で幼少期を過ごした。
グジャラートの多くの共同体の慣習に従い、若くしてジャヴェルバー・パテールと結婚した。結婚は家族としての責任を確かなものにし、その後の多忙な法曹・政治生活と並行して重みを持ち続けた。
家族の務めを抱えながらも、自制と強い意志で学びを進めて法学の資格を整えた。地方の法廷で鋭い反対尋問と実務的な判断で評判を築き始めた。
ジャヴェルバーは病気がちの期間を経て亡くなり、彼は子どもたちを主に一人で育てることになった。この喪失は彼の禁欲的な気質をいっそう強め、職業上の達成へと注意を集中させた。
活発な市民制度と高まりつつある民族主義の公共圏を持つ、グジャラートの商業都市アフマダーバードへ拠点を移した。そこで高収入の弁護士として成功し、迅速さと廉潔さで知られた。
ロンドンのミドル・テンプルで学び、驚くほどの速さと集中力で資格を整えた。帝国政治に触れる経験は、公の場で議論する自信をいっそう鍛え上げた。
市民政治に入り、衛生、財政、戦時の圧力への対応など、市政運営の要となった。結果を出す実務家として名声を高め、妥協のない行政手腕で知られるようになった。
凶作と困窮の中で、農民を組織して英領当局に税の軽減を求める運動を支えた。モーハンダース・ガンディーと協働し、大衆組織化と規律ある不服従を学んだ。
ガンディーの非協力方針を公に受け入れ、繁栄していた法曹の仕事を捨てて民族運動の組織に身を投じた。その決断は道義的な覚悟を示し、グジャラートの町村における国民会議の影響力拡大を後押しした。
各地の抗議と騒擾の後、国民会議の活動家への取り締まりが強まる中で逮捕された。投獄は志願者の間での信望を高め、規律と組織を重視する抵抗の必要性を確信させた。
地租の大幅引き上げに対し、納税拒否と村落の規律維持を徹底して農民を率いた。調査と交渉の結果、当局は査定を引き下げ、彼は「サルダール」と称えられた。
ガンディーが塩の闘争を開始する中、彼はグジャラート全域で抗議と志願者組織を整えた。英当局は国民会議の連携を鈍らせるために彼を拘束したが、拘禁はかえって民族運動の勢いを強めた。
ガンディー=アーウィン協定の後、基本権と経済政策に関する決議を採択したカラチ大会を主宰した。この会議は、当面の抗議政治を超えた将来の憲政構想を形づくる助けとなった。
第二次世界大戦が帝国の優先順位を変える中、交渉、大衆圧力、組織の結束の均衡を図るため国民会議内で尽力した。戦時統制で連携は難しくなったが、彼は主要な戦略家であり続けた。
国民会議が英の退去を求めると、指導部は大規模な弾圧で相次いで逮捕され、彼も拘束された。長期拘禁は運動の粘り強さを試した一方で、地下組織が抗議を継続した。
独立後、ジャワハルラール・ネルーの初代内閣に入り、分離に伴う暴力と行政移行のただ中で内務を担った。国内治安、難民危機への対応、安定した制度の構築に注力した。
V・P・メノンと緊密に協力し、数百の藩王に対して加入文書の締結を進めた。説得、保証、そして必要に応じた強い圧力を組み合わせる国家運営で分裂を防ぎ、領土的一体性の基礎を築いた。
ハイデラバードの君主が加入に抵抗すると、宗派対立と民兵の暴力の中でデカンの不安定化が懸念された。彼の監督のもとで「ポロ作戦」が実施され、1948年9月にハイデラバードは連邦に編入された。
全国的な行政枠組みを擁護し、新しい民主国家のために行政官制度と警察の仕組みを維持・再編するのを助けた。秩序と有能さを重視し、分離後の国家機能の崩壊を防ぐことを狙った。
長年の激務と健康の悪化の末、インドが共和国となった直後にボンベイで亡くなった。立場を超えて、多くの指導者が藩王国の統合と新国家の安定化に果たした決定的役割を認めた。
