松下村塾を開き、明治維新の志士たちを育てた革命的思想家。29歳で刑死したが、その教えは伊藤博文や山県有朋など近代日本の建国の父たちを通じて日本を変革した。「学者は行動せよ」と説いた熱血の志士。
会話のきっかけ
人生の歩み
杉虎之助として、萩の城下町で下級武士の家に生まれた。父は僅かな俸禄の足軽であった。しかし、その知的才能は早くから認められ、短くも激烈な生涯の幕開けとなった。
叔父の吉田大助の養子となった。吉田家は長州藩の兵学師範の家柄であり、この養子縁組により身分が上がり、兵学と儒学の正式な教育を受ける機会を得た。
若年ながら藩校明倫館で兵学の講義を始めた。戦略を分析し複雑な概念を説明する早熟な才能は藩の役人たちを驚嘆させ、神童としての評判を確立した。
長州藩主毛利敬親の前で兵学の講義を行った。藩主は深く感銘を受け、この若さで正式に兵学師範の称号を授けるという前例のない栄誉を与えた。
九州各地を遊学し、海岸防備を視察しながら諸国の学者に学んだ。長崎で佐久間象山に師事し、西洋の軍事技術と迫りくる外国勢力の脅威を学んだ。
藩の正式な旅行許可を得ずに水戸や東北の海岸防備を視察した。この規律違反により士籍を剥奪されたが、国防の知識を個人の出世よりも重んじた。
浦賀に赴きペリー艦隊の来航を目撃した。強大な西洋艦隊の姿は、日本が早急に近代化しなければ植民地化されるという確信を決定的なものにした。西洋技術を直接学ぶことへの執念が生まれた。
西洋文明を学ぶためにペリー艦隊に夜間密航を試みた。発覚して拒否されると、自ら当局に出頭した。海外渡航は死罪であったが、その愛国的動機から命は助けられた。
故郷の野山獄に送られた。しかし絶望することなく、獄中を教室に変え、囚人たちに古典や時事を講じた。獄中での著作『幽囚録』には、彼の革命思想が展開されている。
出獄して実家での蟄居となった。若い武士たちを集めて国事を論じ始めた。この私的な集まりが、日本史上最も影響力のある私塾の基礎となった。
叔父の小さな私塾を引き継ぎ、松下村塾として再興した。この質素な村の塾で、儒教倫理、西洋兵学、熱烈な国家主義を組み合わせた革命的な教育を行った。門下には後の首相伊藤博文、山県有朋がいた。
全盛期の松下村塾には約80名の門人がいた。松陰は「学者は行動せよ」と説いた。自由な議論、権威への疑問、国家救済のための直接行動を奨励する革命的な教育法を実践した。多くが維新の立役者となった。
幕府が勅許なくアメリカとの通商条約に調印したことを激しく批判した。これは単なる失政ではなく、天皇と日本に対する根本的な背信であると主張した。幕府への直接行動を唱える著述は次第に過激になっていった。
京都を通過して尊王派を弾圧しようとする老中間部詮勝の暗殺を計画した。藩当局が支持を拒否すると自首した。この自首が役人を困らせて行動を起こさせると考えたが、この見込み違いが命取りとなった。
長州から江戸の伝馬町牢獄に護送され、幕府の裁きを受けることになった。安政の大獄の最中、全国の尊王派が処刑・投獄されていた。松陰は威厳を保ち、死を前にしても哲学的著作を書き続けた。
安政6年10月27日(1859年11月21日)、29歳で斬首された。辞世の句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」は、その不屈の精神を示している。10年後、門人たちは幕府を倒し近代日本を創設、師の志を実現した。