人生の歩み
諸葛亮は後漢末期の学者の家庭に生まれた。父の諸葛珪は下級官吏であり、一族には学問と仕官の伝統があった。
黄巾の乱が中国全土で勃発し、最終的に漢王朝の滅亡につながる動乱の始まりとなった。幼い諸葛亮はこの動乱の中で成長した。
諸葛亮は幼くして父を失い、叔父の諸葛玄に育てられた。時局の混乱により一家は南へ移り、最終的に荊州に定住した。
叔父の死後、諸葛亮は隆中で農耕と読書の生活を選んだ。兵法、統治術、古典を深く研究しながら、天下の情勢を観察した。
諸葛亮は地元の学者黄承彦の娘、黄月英と結婚した。醜いと言われたが聡明で知られ、諸葛亮の発明に貢献したとされる。
諸葛亮は隠された才能と卓越した策略で「臥龍」の異名を得た。「鳳雛」と呼ばれた龐統と並び、当代最高の人材とされた。
群雄の劉備は諸葛亮の草庵を三度訪れ、出仕を請うた。劉備の誠意と徳に感銘を受けた諸葛亮は仕えることを決め、有名な隆中対を献策した。
諸葛亮は劉備に天下統一の大戦略を示した。荊州を確保し、益州を取り、孫権と同盟して曹操に対抗し、最終的に漢室を復興する計画であった。
劉備の使者として孫権の宮廷に赴き、諸葛亮は東呉を説得して曹操の大軍に対抗する同盟を結ばせた。彼の外交手腕が同盟形成の鍵となった。
劉備と孫権の連合軍は赤壁の戦いで曹操の大軍を破った。伝説では諸葛亮が藁船で矢を借りるなど、多くの奇策を献じたとされる。
劉備軍は益州(現在の四川)を攻略し、隆中対の重要な一歩を実現した。諸葛亮はこの遠征で兵站と統治を担い、大きく貢献した。
曹操の子が漢を簒奪した後、劉備は蜀漢の皇帝を称した。諸葛亮は丞相に任じられ、新国家の軍政全般を統括した。
劉備は東呉への惨敗後に崩御した。臨終に際し、息子の劉禅と国家を諸葛亮に託し、諸葛亮は摂政として蜀漢の実権を握った。
諸葛亮は南方の南蛮族を平定する遠征を行った。南蛮の首領孟獲を七度捕らえ七度放ち、武力ではなく仁徳で真心からの帰順を得た。
諸葛亮は魏討伐の第一次北伐を開始する前に、劉禅に有名な「出師表」を奉った。この上奏文は忠義を表す文学の傑作として今も読み継がれている。
第一次北伐は馬謖が要地街亭を失ったことで失敗した。諸葛亮は軍令違反の愛弟子馬謖を涙ながらに処刑し、軍律への厳格な姿勢を示した。
諸葛亮は「木牛流馬」を発明し、山岳地帯での輸送問題を解決した。彼の発明には連弩や孔明灯も含まれる。
諸葛亮は第五次にして最後の北伐を開始した。五丈原で魏将司馬懿と対峙したが、司馬懿が直接対決を避けたため膠着状態が続いた。
長年の過労が諸葛亮の健康を蝕んだ。陣中で重病となったが、最後まで疲れを知らず働き続け、燭を灯して軍務書類を検討したと伝えられる。
諸葛亮は五十三歳で五丈原に没し、漢室復興の夢は果たせなかった。最期まで蜀軍の整然たる撤退を手配した。彼は中国文化において忠義と知恵の不朽の象徴となった。