ロンドンに迫った若き王位請求者。スチュアート王位のための最後のジャコバイト蜂起を率いた。
会話のきっかけ
人生の歩み
ボニー・プリンス・チャーリーとして知られるチャールズ・エドワード・スチュアートは、ジェームズ・フランシス・エドワード・スチュアートとマリア・クレメンティナ・ソビエスカの子としてローマで生まれた。亡命スチュアート家の王位継承者として、彼は生まれながらにして英国王位への主張を背負った。
チャーリーはカトリックの洗礼を受けた。このカトリック信仰は、プロテスタントの英国王位への主張において後に重大な障害となった。
チャーリーはローマで初等教育を始め、言語、歴史、軍事戦略の家庭教師を受けた。王族にふさわしい洗練された教育が施され、将来の王としての素養を養った。
14歳でチャーリーはフランスに旅し、ジャコバイト支持者と会い、スチュアート家の大義のための政治的支援を得ようとした。この旅で彼は外交と政治陰謀の世界に足を踏み入れた。
チャーリーはスチュアート王朝を英国王位に復帰させるためのジャコバイト蜂起の計画を始め、フランスとスコットランドの同盟者からの支援を確保した。若き王位請求者としての野心が本格的に動き出した。
チャーリーはアウター・ヘブリディーズ諸島のエリスケイ島に上陸し、1745年のジャコバイト蜂起を開始した。わずか7人の仲間と共に上陸し、スコットランド・ハイランドの氏族長たちの支持を集めた。
チャーリーとジャコバイト軍はエディンバラに入城し、彼はスコットランド王として宣言された。ホリルード宮殿に居を構え、数週間にわたり宮廷を開き、大きな支持を集めた。
チャーリーの軍はカンバーランド公の軍にカロデンの戦いで決定的な敗北を喫し、蜂起は終わった。わずか1時間で1500人以上のジャコバイト兵が戦死し、スチュアート家の王位回復の夢は砕かれた。
カロデンでの敗北後、チャーリーは5か月間スコットランド・ハイランドを逃亡した。フローラ・マクドナルドの助けで女装して捕獲を免れ、フランスに脱出した。この逃亡劇は彼を伝説的人物にした。
チャーリーは秘密裏にスコットランドに戻ったが、新たな蜂起への支持を得ることができず、目的を達成できないままフランスに帰還した。
チャーリーはローマやアヴィニョンなど各地で生活し、王位への主張を維持しながら政治活動を続けた。しかし亡命生活の孤独と失敗の連続が彼を酒に溺れさせ始めた。
チャーリーはブリテン島への新たな侵攻のためフランスの支援を得ようとしたが、最終的に失敗した。七年戦争の最中、フランスは彼の計画よりも自国の利益を優先した。
父の死により、チャーリーはチャールズ3世を自称したが、この主張は英国政府に認められなかった。教皇すらも公式に認めることを拒否し、彼の孤立は深まった。
チャーリーはシュトルベルク=ゲーデルン公女ルイーゼと結婚したが、結婚生活は不幸で、彼の酒癖と暴力的な気性により別居に至った。
チャーリーとルイーゼの関係は悪化し、別居した。ルイーゼは詩人アルフィエーリと駆け落ちし、チャーリーはローマでより孤立した生活を送るようになった。
チャーリーは68歳でローマで死去した。スチュアート王朝の復興という夢は果たされなかったが、「ボニー・プリンス・チャーリー」としてスコットランドのロマンチックな伝説として永遠に記憶されている。
