保守主義の父。革命の狂気に対して伝統を擁護したアイルランドの哲学者。
会話のきっかけ
人生の歩み
エドマンド・バークはダブリンでプロテスタントの弁護士の父とカトリックの母の間に生まれた。この宗教的に複雑な家庭環境が、後の宗教的寛容への姿勢に影響を与えた。
バークはバリトアのエイブラハム・シャクルトンのクエーカー学校に送られ、古典教育を受けた。ここで生涯の友人となるリチャード・シャクルトンと出会い、知的基盤を築いた。
バークはトリニティ・カレッジ・ダブリンに入学し古典を学んだ。討論会の創設メンバーとなり、議会でのキャリアを決定づける弁論術を磨き、知識人としての名声を確立した。
バークはミドル・テンプルで法律を学ぶためロンドンに移った。法学の訓練は完了しなかったが、イギリスの政治生活と文学界に触れ、作家としてのキャリアを模索し始めた。
バークは「自然社会の擁護」と「崇高と美の観念の起源についての哲学的探究」を出版した。後者は美学理論の影響力ある著作となり、カントやレッシングにも影響を与えた。
バークはカトリックの医師の娘ジェーン・メアリー・ニュージェントと結婚した。彼らの結婚は非常に幸福で、40年間連れ添い、彼の死まで深い愛情で結ばれていた。
バークは年間の出来事を振り返る出版物「年鑑」の創刊編集者となった。約30年間寄稿し、政治分析家としての技術を磨き、時事問題への鋭い洞察力を養った。
バークはホイッグ派の指導者ロッキンガム侯爵の私設秘書となった。この関係が彼の政治キャリアを開始させ、イギリス政界の中枢に足を踏み入れる機会を得た。
バークはウェンドーバー選挙区の下院議員に選出された。長くも力強い演説で知られる最も雄弁な演説者の一人として頭角を現し、議会の花形弁士となった。
バークは有名な「アメリカ課税に関する演説」を行い、植民地の反乱を引き起こしているイギリスの政策に反対した。植民地との和解を訴え、帝国の統一を守ろうとした。
バークは主要商業都市ブリストルの代表に選出された。ブリストル選挙民への有名な書簡で、代表者は単に選挙民の意向に従うのではなく独立した判断を行使すべきという見解を表明した。
バークはアイルランド貿易とカトリック救済への支持が一因でブリストル議席を失った。しかしロッキンガムの後援でマルトン選挙区から直ちに復帰し、政治活動を継続した。
バークは元インド総督ウォーレン・ヘイスティングズの汚職と権力乱用に対する弾劾手続きを主導した。7年に及ぶ裁判は無罪に終わったが、植民地統治の道義的責任を問う先例となった。
バークは最も影響力のある著作「フランス革命の省察」を出版した。近代保守主義の創始的テキストとなり、急進的変化よりも漸進的改革を主張し、後世の政治思想に多大な影響を与えた。
バークのフランス革命への反対がチャールズ・ジェームズ・フォックスおよびホイッグ党との劇的な決裂を引き起こした。25年の友情が議会での激しい論争の末に終わりを告げた。
バークの一人息子リチャードが突然亡くなり、彼を打ちのめした。リチャードは政治的後継者であり最も親しい仲間であったため、この喪失は晩年のバークに深い悲しみをもたらした。
バークは約30年の議員生活の後、議会から引退した。年金を授与されたが急進派から偽善として攻撃された。引退後も著作活動を続け、政治思想の発展に貢献した。
エドマンド・バークはビーコンズフィールドの邸宅で68歳で亡くなった。近代保守主義の父として知られ、彼の思想は何世紀にもわたって政治哲学と保守主義運動に影響を与え続けている。
