人生の歩み
マリー・ジャンヌ・ベキューは1743年8月19日、フランス東部ロレーヌ地方のヴォクルールで私生児として生まれた。母アンヌ・ベキューは裁縫師で、父は修道士ジャン・バティスト・ゴマールと言われている。
母アンヌ・ベキューは召使いのジャン・バレと結婚した。継父は娘に愛情を注いだが、家庭は貧しく、幼いマリー・ジャンヌは早くから社会の厳しさを知ることとなった。
マリー・ジャンヌはパリのサント・オール修道院学校に入学した。裕福な後援者の援助により、読み書き、裁縫、礼儀作法など上流階級の女性に必要な教養を身につける機会を得た。
マリー・ジャンヌは14歳で修道院学校を卒業した。優雅な物腰と美しい容姿を身につけていたが、貴族の出身ではないため、自らの才覚で生きていく道を模索しなければならなかった。
マリー・ジャンヌはパリの高級帽子屋ラビーユの店で助手として働き始めた。上流階級の顧客と接する中で社交術を磨き、その美貌と機知に富んだ会話で多くの紳士の注目を集めた。
マリー・ジャンヌはパリ社交界で最も美しい女性の一人として名を馳せるようになった。貴族や富裕な商人たちの愛人となり、高級娼婦として華やかな生活を送り始めた。
マリー・ジャンヌはギヨーム・デュ・バリー伯爵と形式上の結婚をした。この結婚は彼女に貴族の称号を与え、ヴェルサイユ宮廷に出入りする資格を得るための政略的なものであり、実質的な夫婦関係はなかった。
デュ・バリー夫人は58歳のルイ15世の公式愛妾となった。ポンパドゥール夫人の死後4年間空位だった地位を得て、ヴェルサイユ宮殿で最も影響力のある女性の一人として君臨した。
デュ・バリー夫人は宮廷政治に大きな影響力を持つようになった。宰相ショワズール公爵の失脚に関与し、芸術家や作家のパトロンとしてロココ文化の発展に重要な役割を果たした。
ルイ15世が天然痘で死去し、デュ・バリー夫人は宮廷から追放された。新国王ルイ16世の王妃マリー・アントワネットは彼女を嫌悪しており、即座にヴェルサイユからの退去を命じ、修道院への幽閉を命じた。
修道院から解放されたデュ・バリー夫人はパリ近郊ルーヴシエンヌの豪華な邸宅に隠退した。ルイ15世から贈られた莫大な財産により、贅沢な生活を続けながら芸術品の収集と慈善活動に情熱を注いだ。
デュ・バリー夫人はブリサック公爵ルイ・エルキュールと深い恋愛関係を結んだ。公爵は彼女の最後の恋人となり、二人はフランス革命の嵐が吹き荒れるまで14年間にわたり幸福な日々を過ごした。
デュ・バリー夫人は一時的に宮廷への出入りを許可された。マリー・アントワネットとの関係は改善されなかったが、旧知の貴族たちとの交流を再開し、社交界での地位を部分的に回復した。
フランス革命が勃発し、デュ・バリー夫人の運命は暗転し始めた。バスティーユ襲撃に始まる革命の嵐は、旧体制の象徴である彼女にとって致命的な脅威となることが明らかになった。
デュ・バリー夫人は盗まれた宝石を取り戻すためロンドンに渡航していたが、フランスに帰国した際に革命政府に逮捕された。旧体制の象徴として反革命の嫌疑をかけられた。
デュ・バリー夫人は1793年12月8日、恐怖政治の最中にパリのコンコルド広場でギロチンにより処刑された。処刑台で「もう少しだけ待って」と叫んだ彼女の最期の言葉は、革命の残酷さを象徴するものとして後世に伝えられている。
