率直で行動力のあるソ連の改革者。スターリン主義に異議を唱え、キューバ危機に直面し、冷戦期の政治の力学を塗り替えた。
会話のきっかけ
人生の歩み
ロシア帝国のカリノフカ村で、父セルゲイと母クセニヤのもとに生まれた。幼少期は貧困と季節労働、限られた就学に左右され、農村の厳しい暮らしの中で育った。
家族とともにドンバスの工業地帯へ移り、金属工や工場・炭鉱の見習いとして働いた。過酷な労働環境と労働運動の空気が、階級と権力に対する初期の考え方を形づくった。
一九一七年の激動は、ウクライナと南ロシアに権力の並立、ストライキ、武力衝突を広げた。彼は労働者の環境の中でボリシェビキの組織者に近づき、旧体制よりもソビエト権力を支持する立場を固めた。
ロシア内戦のさなか、忠誠と規律が最重視される時期に党へ加わった。党員としての地位は、現場労働から新生ソビエト国家の行政的役割へ進む道を開いた。
ソ連がレーニン後の体制固めを進める中、地方の党機関で昇進を重ねた。命令の徹底と人員の掌握に長けた現場型の強硬な組織者として名を上げ、不安定な地域での統制に能力を示した。
モスクワへ移り、技術と政治の中核人材を育てるスターリン工業アカデミーで訓練を受けた。党機構内での人脈を築き、のちの急速な出世を支える基盤となった。
一九三〇年代半ばまでに、スターリンのもとでモスクワの党組織に結びつく要職を担った。恐怖が支配する空気の中で、庇護と告発、中央集権的統制という苛烈な作法を身につけた。
大粛清はソ連の諸機関を荒廃させ、ライバルの排除と官僚の恐怖を広げた。空席が増える中で彼は地位を上げ、秘密警察による逮捕と処刑が党の姿を作り替えていく現実を目の当たりにした。
粛清と政治的混乱で弱体化した地元指導部の後任として、ウクライナの党組織の指揮を任された。欧州に面する戦略的に重要な共和国で、工業の優先課題と党規律の徹底を監督した。
独ソ戦の開始後、政治委員として戦時評議機関で上級の党代表を務めた。司令官と協働し、動員、士気、工業疎開の調整に極限の圧力の中で取り組んだ。
勝利後、ウクライナで復興の管理に関与し、戦争で損なわれた都市と重工業の再建を進めた。食糧不足と武装抵抗が統治を苛酷で政治的に難しいものにした。
スターリンの死後、指導部では権力闘争が激化した。彼は幹部会と党機構の駆け引きを通じて、党の頂点の座を確保した。
第二十回党大会の非公開会合で、個人崇拝と大規模な弾圧を厳しく非難した。演説は代議員に衝撃を与え、脱スターリン化を促し、世界各地の共産主義運動にも波紋を広げた。
モロトフやマレンコフら党古参が幹部会での失脚を狙った。彼は中央委員会の支持を取り付けて対抗勢力を脇へ追いやり、権威を強化した。
米国各地を視察し、大統領と会談して自信を誇示しつつ外交的糸口を求めた。訪問は見世物的な側面と真剣な協議が入り混じり、核競争と経済体制の対立を浮き彫りにした。
東ドイツからの大量流出と正統性の危機を背景に、ベルリンをめぐる緊張が高まった。壁の建設は東側陣営の圧力のもとで進められ、欧州の冷戦境界を長期にわたり固定化した。
キューバへのミサイル配備を承認し、米国の強い圧力に直面した。危機は交渉による撤去と秘密の取引で終結し、瀬戸際外交を象徴する出来事となった。
経済の混乱と一貫性に欠ける指導ぶりへの批判が強まり、ブレジネフらが更迭を主導した。辞任に追い込まれて後任に交代し、改革の勢いは急速にしぼんだ。
監視下で静かに暮らし、のちに西側のソ連理解に影響を与える回想録を執筆した。一九七一年に死去し、クレムリンの墓地ではなくノヴォデヴィチ墓地に葬られた。
