豊かな和声と憂いを帯びた旋律で、ロシア後期ロマン派の精神とアメリカの演奏会文化を結びつけた、巨躯のヴィルトゥオーゾにして作曲家。
会話のきっかけ
人生の歩み
ノヴゴロド近郊の領地で、生計が傾きつつあった貴族の家に生まれた。幼少期にピアノと教会音楽に触れた体験が、のちの合唱・管弦楽作品に通じる情緒の源となった。
帝都へ移り、サンクトペテルブルク音楽院で正規の音楽教育を受け始めた。家庭の不安定さと度重なる転居が学業を妨げ、のちの自信や生活の規律に関わる葛藤を予兆した。
モスクワへ移住し、厳格な教育者ニコライ・ズヴェーレフのもとで学び、ほかの才気ある学生と同居した。厳しい日課は技巧と持久力を鍛え、後年のヴィルトゥオーゾとしての基盤となった。
モスクワ音楽院の上級課程に進み、作曲をセルゲイ・タネーエフとアントン・アレンスキーに学んだ。チャイコフスキーの遺産とロシア音楽の民族主義的潮流の中で、抒情的なロマン派の個性を磨いた。
厳しい試験を経て、モスクワ音楽院のピアノ課程を優秀な成績で修了した。大きな手の届きと明晰な鍵盤さばきが、競争の激しいモスクワの音楽界で注目を集めた。
作曲科の卒業作品としてオペラ「アレコ」を完成させ、学生の快挙としてボリショイ劇場で上演された。この成功により新進の大作曲家として注目され、有力者の後援と委嘱を得た。
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーと交流を持ち、若い作曲家にとって計り知れない励ましを受けた。まもなく訪れたチャイコフスキーの死は、芸術的継承と喪失の感覚をいっそう深めた。
アレクサンドル・グラズノフ指揮による交響曲第一番の初演は不評に終わり、準備不足だったとも伝えられる。苛烈な批評が壊滅的打撃となり、数年にわたって作曲できない深刻な創作危機に陥った。
重い抑うつのさなか、モスクワでニコライ・ダール医師の精神療法と暗示療法を受けた。治療は仕事への集中力を取り戻す転機となり、次の大協奏曲へ直結した。
第二ピアノ協奏曲を完成・初演し、回復への感謝としてダール医師に献呈した。大きくうねる旋律と劇的な構築は瞬く間に人気を博し、国際的な名声を確かなものにした。
親族間の反対や教会上の制約を乗り越え、従妹ナターリヤ・サーチナと結婚した。家庭の安定は、作曲・演奏・指揮の任務が増える中で支えとなった。
ボリショイ劇場で指揮の職を引き受け、主要なオペラと交響曲の上演を率いた。過密な日程は管弦楽の掌握力を広げた一方、作曲と家庭に割ける時間を圧迫した。
西欧へ渡り、パリで演奏会を指揮して自作とロシア作品を紹介した。これらの活動でロシア国外での名声が高まり、各地の巡業への招待が増えた。
大規模な巡業でアメリカを訪れ、ウォルター・ダムロシュ指揮ニューヨーク交響楽団と第三ピアノ協奏曲を初演した。恐るべき難度と濃い抒情は、のちにピアニストの金字塔とみなされるようになった。
ロシア正教の聖歌に根ざし、豊かで暗い響きをもつ宗教合唱作品「晩祷」を作曲した。戦時下のロシアで初演され、無伴奏合唱書法の偉業として尊ばれた。
一九一七年の革命の混乱の中、家族とともにロシアを離れ、領地や財産の多くを失った。亡命により家計を支えるため演奏を最優先せざるを得ず、作曲の時間は大きく減った。
アメリカに到着し、主要なホールや一流オーケストラで頻繁に演奏する、苛烈な演奏活動を築いた。録音と独奏会によって、感傷に流れずリズムの芯が硬い独自の様式を確立した。
「コレッリの主題による変奏曲」を完成させ、より引き締まった現代的な和声感覚を示した。演奏では変奏を省くこともあったが、晩年の精密さと構成への規律がよく表れている。
ピアノと管弦楽のための「パガニーニの主題による狂詩曲」を作曲し、レオポルド・ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により初演された。有名な第十八変奏は広く愛され、超絶技巧と胸を刺す抒情を結びつけた。
健康が衰える中でも、職業的責任感と経済的事情に突き動かされ、過酷な最後のシーズンまで演奏を続けた。ビバリーヒルズの自宅で亡くなり、ロマン派最後の巨人として世界に悼まれた。
