苛烈な政治的監視の下で、皮肉と悲嘆、そして抗いの意思を交響曲に織り込み続けた、鋭利な感性のソビエト作曲家。
会話のきっかけ
人生の歩み
ロシア帝国のサンクトペテルブルクで、ドミートリイ・ボレスラヴォヴィチ・ショスタコーヴィチとソフィヤ・コクーリナの子として生まれた。母は訓練を受けたピアニストで、幼い頃から彼の耳を導き、規律正しさと好奇心を併せ持つ気質を形作った。
革命後の物資不足に苦しむ都市で、ピアノと作曲を学ぶためペトログラード音楽院に入学した。アレクサンドル・グラズノフら教師が才能を認め、病と貧困の中でも学業を続けられるよう支えた。
卒業作品である交響曲第一番が初演され、鋭い機知と管弦楽の統御でたちまち称賛を集めた。ほどなく欧州と米国の指揮者が取り上げ、若い学生は新進のソビエト文化人として頭角を現した。
第1回ショパン国際ピアノコンクールに出場し、名誉表彰状を得て優れたピアニストとしての力量を示した。ワルシャワでの経験は、西側の音楽界と批評に触れる機会となり、ソビエトの文化的境界の外を知る契機になった。
生計を立てるため映画音楽を書き始め、正確なタイミングと鮮やかな人物主題の技術を素早く身につけた。この職人的訓練は、後の交響曲や風刺的な舞台作品に聞かれる急激な気分転換の手腕を磨いた。
オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は生々しい劇性と大胆な管弦楽法で連日満員となった。成功によってソビエトの新しい潮流の中心に立つ一方、劇場の称賛の影で思想の監視者の視線も集めた。
ヨシフ・スターリンが不満げに退席したと伝えられた後、機関紙に悪名高い批判文が掲載された。大粛清のさなか現実の危険に直面し、交響曲第四番を撤回して、玄関に鞄を詰めたまま暮らした。
交響曲第五番は初演で感情的な喝采を受け、『正当な批判への創造的回答』として宣伝された。表面の英雄的な姿は当局を満足させつつ、底流の悲しみと緊張は聴衆の心に深く響いた。
ナチス・ドイツの侵攻が始まると、砲撃と封鎖が強まるレニングラードで交響曲第七番を書き始めた。士気高揚のため消防士のヘルメット姿で撮影され、戦時下の文化的抵抗の象徴となった。
家族とともに疎開し、クイブィシェフで交響曲第七番を完成させ、主要初演が行われた。総譜は後に西側へ空輸され、反ファシズムの象徴として演奏されて、国際的評価を大きく高めた。
厳しく統制された文化体制のもとで、作曲を教え若い音楽家を育てるためモスクワ音楽院の教員となった。教育と公式の期待の間で均衡を取りながら、公的な役割を担いつつ私的な良心を守った。
スターリンが望む壮大な勝利交響曲ではなく、交響曲第九番は引き締まった皮肉と古典的身振りを備えた作品となった。その齟齬は当局の不興を買い、戦後の宣伝要求と彼の不安定な関係を示した。
文化運動は彼らを『形式主義』として糾弾し、上演を制限して公然と屈辱を与えた。彼は音楽院の職を失い、政治的に生き延びるため映画音楽や比較的安全な作品にいっそう傾いた。
スターリンの死後、暗く広大な交響曲第十番を発表し、恐怖と忍耐の肖像として聴かれることが多かった。彼は固有の音型を織り込み、強制された同調の年月を経て個としての印を押した。
強い圧力の下で共産党に入党し、その決断は本人と多くの同僚を苦しめた。同じ年にドレスデンで弦楽四重奏曲第八番を書き、過去作品を引用して自己の墓碑銘のように響かせ、戦争と抑圧の影に取り憑かれた。
交響曲第十三番は詩を用い、反ユダヤ主義と、キーウ近郊の虐殺についての沈黙に切り込んだ。当局は改変を要求し公演は制約されたが、この作品は道義的証言の画期として位置づけられた。
交響曲第十四番は複数の詩を用い、室内楽的な編成で構成された。容赦ない率直さは健康悪化を映し、勝利ではなく死と有限性へ向かう後期様式を示した。
最終交響曲は謎めいた参照を織り込み、引用を交えながら意味をめぐる議論を誘った。批評家は、冷笑的な遊戯と諦念の双方を聴き取り、衰えに直面する彼の容赦ない明晰さを指摘した。
長年の衰弱する病の末にモスクワで亡くなり、交響曲、弦楽四重奏曲、映画音楽にまたがる膨大な作品群を遺した。ノヴォデヴィチ墓地に埋葬され、公には悼まれつつも、彼の真の声をめぐる議論は世界で続いた。
