ロシアの管弦楽法を形づくった比類なき色彩の達人。民間伝承と幻想を、厳密な技術と緻密な構成で結び、時代を超えて輝く交響的世界を生み出した。
会話のきっかけ
人生の歩み
地方都市チフヴィンの貴族の家に生まれ、教会の鐘や民謡の旋律に囲まれて育った。幼い頃のピアノの手ほどきと土地の音楽生活が、音色と物語への生涯の関心を芽生えさせた。
首都へ移り、海軍士官候補生学校で厳格な規律の下に学ぶ一方、個人の音楽レッスンも続けた。オペラや管弦楽の演奏会に触れて、趣味の作曲を超えた志を抱くようになった。
作曲家ミリイ・バラキレフに紹介され、のちに「五人組」と呼ばれる民族主義的な集まりへ引き込まれた。バラキレフの指導は、音楽院的な正統よりもロシア的主題と実践的な管弦楽の発想へ彼を向かわせた。
卒業後、海軍士官として任官し、勤務のかたわら作曲を続けた。バラキレフに励まされ、ツェーザリ・キュイら友人の支えも得て、意欲の表明として交響曲の草稿に取りかかった。
数年に及ぶ航海に出て、各地の音に触れながら楽想のスケッチを重ねた。首都から離れることは自信を試す出来事でもあったが、のちの管弦楽作品へつながる発想を磨き上げた。
バラキレフの指揮により第一交響曲が初演され、「力強い一団」の初期の節目となった。現役の海軍士官でも、真摯なロシアの交響作家として台頭し得ることを示した出来事だった。
正式な教育が十分でないにもかかわらず、音楽院の教授職を引き受けたことは大胆な決断だった。その責務は急速な独学を促し、対位法と和声に没頭して、権威と精度をもって教える力を身につけた。
優れたピアニストで作曲家でもあるナジェジダ・プルゴリドと結婚し、重要な芸術上の伴侶を得た。自宅はリハーサルや議論の場となり、彼女の実践的な助言は改訂や仕事の計画に大きく役立った。
艦隊全体の編成と演奏水準を統括する海軍軍楽隊監督官に任命された。この職務は管楽器の書法と実務的な管弦楽法への理解を深め、のちの輝きを支える技術を研ぎ澄ませた。
初の本格的オペラ「プスコフの娘」が舞台にかかり、ロシア史の色彩と、次第に確立される劇的なテンポ感が結びついた。上演は宮廷の音楽界での評価を高め、オペラへの野心をさらに広げた。
モデスト・ムソルグスキーの死後、「ボリス・ゴドゥノフ」や「ホヴァーンシチナ」などの大規模な校訂と管弦楽化に取り組んだ。議論を呼びつつも、この作業はそれらのオペラが長年にわたり劇場や演奏会で生き続ける助けとなった。
「スペイン奇想曲」は、眩い管弦楽の色彩と躍動するリズムで聴衆を魅了し、たちまち人気を得た。借用した舞曲的語法を、ロシア的な管弦楽の壮観へ変貌させる手腕を示した。
「千夜一夜物語」に触発され、「シェヘラザード」を作曲し、反復する主題ときらめく管弦楽の色彩を織り合わせた。独奏ヴァイオリンの声と鮮やかな海の情景は、標題的なロシア交響主義の代表例となった。
「ロシア復活祭序曲」は正教の聖歌と鐘の響きを素材に、儀礼と祝祭の高揚を描き出した。聖なる音への関心を映しつつ、演奏会用の華やかな名作としても磨き抜かれている。
「サトコ」はロシア叙事伝説を、豊麗な管弦楽と鮮明な場面描写で舞台に甦らせた。成功した上演は、成熟したオペラ作家としての声と、大規模な幻想劇を持続させる力量を確証した。
革命のさなか、音楽院の学生を公然と支持し、取り締まりに抗議した。当局は彼を解任したが、世論と芸術家の連帯が圧力となり、地位と影響力は回復へ向かった。
プーシキンの物語に基づく風刺オペラ「金鶏」を完成させ、専制の愚かさを批評した。帝政の検閲により上演は遅れ、この作品は皮肉と想像力に満ちた最後の大きな声明となった。
病の期間を経て亡くなり、弟子や同僚はロシア作曲界への決定的な影響を改めて認めた。彼の教育と和声・管弦楽法の論考は、ストラヴィンスキーらを含む世代にわたり作曲家を形づくった。
