一九七三年に権力を掌握したチリ陸軍の司令官で、軍事独裁者として統治し、長く賛否の分かれる遺産を残した。
会話のきっかけ
人生の歩み
チリ有数の太平洋岸の港町バルパライソで、アウグスト・ピノチェト・ベラとアベリナ・ウガルテ・マルティネスの子として生まれた。保守的なカトリックの環境で育ち、のちの秩序と権威を重んじる考え方に影響を受けた。
職業軍人としての道を選び、サンティアゴのベルナルド・オイギンス解放者陸軍士官学校に入学した。チリが政治的不安定に揺れる時期で、学校は規律と上下関係を強く重視していた。
卒業後にチリ陸軍の将校として任官し、歩兵部隊での任務を重ねて昇進していった。初期の配属先で、厳格な規律と組織への忠誠で評判を築いた。
ルシア・イリアルト・ロドリゲスと結婚し、保守系の有力な人脈とも結びついた。夫妻はのちに五人の子どもをもうけ、彼女は統治期に目立つ存在となり論争の的にもなった。
高等軍事教育を受け、参謀職として兵站や作戦立案の専門性を深めた。冷戦期に軍の職業エリート層の中核に入り、組織内での立場を強めた。
労働争議の拡大と思想的対立が深まる中で将官級に到達した。左派運動と国内治安上の脅威への警戒を強める軍の姿勢を背景に、昇進が進んだ。
社会主義者のサルバドール・アジェンデが大統領に当選し、政党、労組、軍の緊張が一段と高まった。上級将校だった彼は、ストライキや物資不足、衝突が続く時期を見守った。
抗議と反対抗議が激化する中で、陸軍の主要な指揮職を担った。軍は憲法上の役割をめぐり議論を重ね、企業団体と労組は改革をめぐって対立を深めた。
カルロス・プラッツ将軍が政治的圧力で辞任したのち、八月にアジェンデ大統領から陸軍最高司令官に任命された。この人事により、決定的行動に備える陸軍の中心に立つことになった。
九月十一日、軍はアジェンデ政権に対して行動を起こし、大統領府は空爆を受け、大統領は宮殿内で死亡した。彼は新たな軍事政権の中で支配的地位を確立し、チリの民主政を終わらせた。
共和国大統領の称号を掲げ、軍事体制の下で権限を中央に集約した。議会と政党を停止し、非常措置の布告によって国家制度を作り替えていった。
反対派を追跡するため、マヌエル・コントレラスの下で国家情報局が設立された。拘束、拷問、失踪が各地で報告され、ビリャ・グリマルディなどの施設が国際的非難を招いた。
元閣僚のオルランド・レテリエとロニー・モフィットがワシントンで車爆弾により殺害され、事件は情報機関の工作員と結び付けられた。これにより米国との関係は悪化し、国際的監視はいっそう強まった。
大学の影響を受けた技術官僚が、民営化、規制緩和、歳出削減を推進した。改革は社会に大きな痛みをもたらした一方、支持者は経済の近代化だと主張した。
新憲法が論争を伴う国民投票で承認され、体制の時間表が延長されるとともに軍の影響力が制度化された。将来、彼の続投を問う投票へ至る道筋も定められた。
中南米の債務危機と連動して深刻な不況に陥り、銀行破綻と失業が拡大した。政府は金融安定化に介入する一方、抗議行動と反体制勢力の組織化が全国で強まった。
国家メディアの優位や圧力がある中でも、国民は統治延長に反対票を投じた。結果は移行の時間表を確定させ、反対派が憲法の枠内で選挙に挑む力を得た。
民主的に選出されたパトリシオ・アイルウィンに大統領職を引き渡したが、自身は陸軍最高司令官として留まった。移行期は文民統治の回復と、軍が責任追及に及ぼす影響力の同居という綱渡りだった。
ロンドンで治療中に、スペインの判事が人権犯罪を理由に身柄引き渡しを求めたことで拘束された。この事件は、普遍的管轄と元指導者の免責をめぐる国際的論争の画期となった。
失踪、拷問、資金問題などに関する裁判所の捜査が進む中、サンティアゴで死去した。死亡によって多くの手続きは終結したが、国民的記憶の分断と正義を求める声は残り続けた。
