厳格な規律を重んじた南軍の将軍であり、優れた戦術眼と、戦後の自制的な姿勢によって、長く議論を呼ぶアメリカの象徴となった人物。
会話のきっかけ
人生の歩み
母アン・ヒル・カーター・リーと、独立戦争の将校ヘンリー「ライトホース・ハリー」リーの子として生まれた。若い合衆国において、家の名声と家計の苦境が彼の幼少期に影を落とした。
入学を認められ、工学と規律を重視する厳しい課程に取り組んだ。几帳面な行いと学業成績の良さで同期の中でも評判を築いた。
優等で卒業し、減点なしという学校でも稀な記録を残した。陸軍工兵隊の名誉少尉として任官した。
マーサ・ワシントンの曾孫にあたるメアリー・カスティスと結婚し、ワシントン家の系譜とも結び付いた。結婚生活はアーリントンの邸宅を中心に営まれ、のちに七人の子をもうけた。
港湾や河川の改修に携わり、沿岸の通商と航行を守る事業を進めた。これらの任務は実務的な工学技能を磨き、地形や要塞への注意深さをいっそう強めた。
ウィンフィールド・スコット将軍の遠征に加わり、大胆な偵察で重要な機動を導いた。ベラクルスおよびその後の戦闘での働きは称賛され、名声の高まりを早めた。
険しい地形を抜ける経路を見いだし、メキシコシティ近郊での側面攻撃を可能にした。激戦の中でも冷静に任務を遂行し、参謀としての巧みさをスコットから高く評価された。
チャプルテペクと首都への接近路に向けた攻撃を支え、工兵と部隊の調整を担った。戦時の名誉昇進は、戦術判断と行動上の勇気の双方を示すものだった。
校長としてウェストポイントに戻り、生徒の規律、教育、制度改革を監督した。地域対立が強まる時代に、職業軍人としての基準と工学的能力を重視した。
陸軍長官ジェファーソン・デイヴィスの拡張計画のもと、工兵から騎兵へ転じて辺境任務に就いた。テキサスに駐屯し、襲撃への対処や広大な距離にまたがる過酷な補給問題に直面した。
ジェームズ・ブキャナン大統領の命で派遣された海兵隊と兵士を指揮し、武器庫でのジョン・ブラウンの襲撃を鎮圧した。ハーパーズ・フェリーでの迅速な作戦は、奴隷制と分離をめぐる国内の緊張を一段と高めた。
北軍指揮の提案を辞退し、忠誠の葛藤が深まる中で辞表を提出した。ほどなくバージニア側の指揮責任を引き受け、国を引き裂く危機の深刻さを映し出した。
半島方面作戦でジョセフ・E・ジョンストンが負傷した後、指揮を引き継いだ。防衛体制を再編し、東部戦線の流れを変える攻勢を開始した。
第二次マナサスでジョン・ポープ率いる北軍を破り、続いてフレデリックスバーグでアンブローズ・バーンサイドを撃退した。これらの勝利は南軍内での評価を高め、北部の失望を深めた。
北部へ侵攻し、ゲティスバーグでジョージ・G・ミード率いるポトマック軍と衝突した。三日間の戦闘は南軍に大きな損害をもたらす撤退に終わり、戦略上の転機となった。
ウィルダネスからスポットシルベニア、コールドハーバーへと続く、ユリシーズ・S・グラントの執拗な攻勢に直面した。リッチモンドとピーターズバーグを守る中で、優勢な北軍の資源に押されつつ大きな損害を被った。
ピーターズバーグ陥落後に西へ退いたが、アポマトックス近郊でグラント軍に包囲された。寛大な条件で降伏し、南軍の大規模抵抗終結に向けた前例を作った。
ワシントン・カレッジの指導者となり、近代言語、法学、商業などを含む課程を推進した。彼の学長職は荒廃した地域の安定を図り、復興期の変化の中で学生を導くことを目指した。
一八七〇年に脳卒中を起こし、完全には回復しないまま家族や同僚が自宅に集った。戦後の教育指導者であり公的人物として知られたレキシントンで生涯を閉じた。
