概要
賢明王シャルル。敗戦の廃墟からフランスを再建し、イングランド人を追い返した。
会話のきっかけ
人生の歩み
シャルルは1500年2月24日にヘントで生まれた。美男公フィリップとカスティーリャのフアナの長男として、相続により前例のない広大な帝国を統一することになる運命を背負っていた。
父フィリップの突然の死により、わずか6歳のシャルルはブルゴーニュ領ネーデルラントを継承した。叔母オーストリアのマルガレーテが摂政となり、彼は宮廷で教育を受けた。
シャルルは成人と宣言され、ネーデルラントの親政を開始した。ユトレヒトのアドリアンの指導の下で統治術を学び、将来の皇帝としての基礎を着実に築いていった。彼の才能は早くから注目された。
祖父フェルナンド2世の死後、シャルルはスペイン王となり、カスティーリャ、アラゴン、そして広大なスペイン植民地を統治することになった。王位を主張するためスペインに渡った。
シャルルはフランス王フランソワ1世を破り、カール5世として神聖ローマ皇帝に選出された。ヨーロッパとアメリカ大陸にまたがる「太陽の沈まない帝国」を統治することになった。
シャルルはマルティン・ルターが著作を弁護したヴォルムス帝国議会を主宰した。シャルルはルターを法の保護外に置く勅令を発し、数十年にわたる宗教紛争の幕開けとなった。
帝国軍はパヴィアでフランス軍を壊滅させ、フランソワ1世自身を捕虜にした。これはシャルル最大の軍事的勝利であり、イタリアにおけるハプスブルク家の優位を確立する決定的な戦いとなった。
シャルルはポルトガルのイサベラと政略結婚したが、二人の間には真の愛情が芽生えた。この幸福な結婚からフェリペ2世をはじめとする子供たちが生まれ、王朝の未来を確保した。
給料未払いで反乱を起こした帝国軍がローマを略奪し、教皇クレメンス7世を投獄した。シャルルが命じたわけではなかったが、この事件はヨーロッパ中に衝撃を与え、彼の評判を傷つけた。
教皇クレメンス7世はボローニャでシャルルを神聖ローマ皇帝として戴冠した。これは歴史上最後の教皇による戴冠式となり、教皇庁との長年の対立の後に実現した和解であった。
シャルルは自ら遠征を率いてオスマン帝国の臣下バルバロッサからチュニスを征服した。数千人のキリスト教徒奴隷を解放し、北アフリカにハプスブルク家の存在を確立する偉業を成し遂げた。
最愛の皇后イサベラが出産中に亡くなった。シャルルは深く打ちひしがれ、再婚することはなかった。彼は残りの人生を喪に服して黒い服を着続け、妻への愛を示し続けた。
シャルルはフランソワ1世とクレピーの和約を締結し、ハプスブルク・ヴァロワ戦争の一段落を終わらせた。この和平によりプロテスタント問題に集中できるようになり、帝国の安定を図った。
シャルルはミュールベルクでプロテスタントのシュマルカルデン同盟を破り、主要なプロテスタント指導者を捕虜にした。これは宗教改革に対する彼の最大の軍事的成功であった。
プロテスタント諸侯がフランスと同盟し、インスブルックでシャルルをほぼ捕らえるところだった。彼はアルプスを越えて命からがら逃亡し、健康と精神は深く打ち砕かれた。
アウクスブルクの和議は「領主の宗教がその領土の宗教」の原則を確立し、諸侯が領土の宗教を決定できるようにした。シャルルの宗教的統一の夢は完全に潰えた。
感動的な式典でシャルルは全ての称号を退位し、帝国を息子フェリペ2世(スペイン)と弟フェルディナント1世(神聖ローマ帝国)に分割して引き継がせた。
カール5世は1558年9月21日、隠居していたユステ修道院で亡くなった。シャルルマーニュ以来最大のヨーロッパ帝国を統治したが、最終的にキリスト教の統一を維持することはできなかった。
