ロマン派の天才的作曲家・指揮者。バッハの遺産を甦らせる一方で、透明感に満ちた交響曲、協奏曲、合唱作品を数多く生み出した。
会話のきっかけ
人生の歩み
ハンブルクで銀行家の父と母のもとに生まれる。祖父は著名な哲学者で、家庭は高度な教養と音楽教育を支える文化的環境にあった。
時代の混乱でハンブルクが不安定になる中、一家はプロイセンの文化中心地であるベルリンへ移った。都市のサロンや諸機関を通じ、彼は一流の教師や演奏家に触れる機会を得た。
同化圧力の中で、兄弟姉妹とともにルター派として洗礼を受ける。信仰、社会的地位、公的生活の間で折り合いを付けながら、「メンデルスゾーン・バルトルディ」という名が用いられるようになった。
作曲と対位法を学び、師の導きでベルリンの合唱団との縁を得る。この環境で彼はバッハやヘンデルの伝統を深く吸収し、後の合唱・オラトリオ作品の基盤となった。
師に伴われてゲーテと面会し、その才能を高く評価される。出会いは自信を強め、芸術が持つ道徳的・文学的な根拠への信念をさらに深めた。
十六歳で、室内楽でありながら交響的なスケールと輝きを備えた大胆な八重奏曲を書き上げる。推進力あるリズムと果敢な書法は、彼を新時代の重要な声として印象づけた。
戯曲に触発され、糸のように繊細な弦と魔法めいた管弦楽の色彩で序曲を作曲する。作品はすぐに評判となり、後に劇付随音楽の中核をなした。
唯一完成した歌劇が王立劇場で初演されるが、反応は冷淡だった。彼は作品を引き下げ、以後は交響曲と合唱のジャンルへ志を移していく。
合唱団を率いて「マタイ受難曲」の画期的な再演を指揮し、当時の編成に合わせた形で上演を実現した。この出来事は19世紀のバッハ熱を大きく促し、ドイツの音楽的自己像にも影響を与えた。
初の大規模な演奏旅行で、ロンドンの聴衆にピアニスト兼指揮者として強い印象を与え、その後スコットランドへ向かった。ホリールードの廃墟や風景は、後の交響曲「スコットランド」や序曲に通じる着想を与えた。
各地を巡り、祝祭の華やぎ、美術、地中海の光を吸収して音色感を広げた。この時期のスケッチはのちに交響曲第4番「イタリア」へ結実し、躍動する明るさで知られる。
演奏会と教会音楽を統括する要職に就き、合奏団とレパートリーを扱う実地経験を積んだ。事務上の摩擦や市政の事情に悩まされつつも、職務は職業指揮者としての成長を加速させた。
名門オーケストラの指揮者に就き、規律と選曲を急速に刷新した。彼のもとでライプツィヒは洗練された音楽活動の中心地となり、作曲家、名手、後援者を引き寄せた。
オラトリオ「パウロ」が好評のうちに初演され、バロック風の合唱とロマン派の表現を融合した。成功は宗教作品の作曲家としての地位を確かなものにし、各地の音楽祭との結び付きも強めた。
改革派牧師の娘であるセシルと結婚し、夫妻はのちに五人の子どもをもうけた。ライプツィヒでの家庭生活は、絶え間ない演奏旅行と締め切りの中で安定をもたらした。
公的支援を受け、厳格な技術と広い教養を備えた音楽家を育てるため音楽院の設立に尽力した。後に同僚も教壇に立ち、ライプツィヒの教育的影響力は決定的となった。
首席奏者との長い協働を経て協奏曲を完成させた。切れ目のない構成と抒情の濃さにより、作品は瞬く間に古典となり、ヴァイオリンレパートリーの中核となった。
大規模な合唱祭で「エリヤ」が初演され、英国の合唱伝統と大聴衆に合わせて練り上げられた。劇的な構成と鮮烈な合唱は広い喝采を呼び、国際的な名声をさらに高めた。
最も近しい芸術的理解者であった姉が急逝し、一家は衝撃に包まれた。悲嘆と過労は脆弱な健康を悪化させ、彼は哀悼の音楽を書きつつ公の場から距離を置いた。
疲弊と発作を繰り返したのち、三十八歳で世を去り、多作な生涯は突然断ち切られた。ライプツィヒの音楽界は深く嘆き、彼の作品はまもなく19世紀の演奏会の中心的レパートリーとなっていった。
