実存主義の父。信仰の飛躍。確実性より不安を選んだデンマークの哲学者。
会話のきっかけ
人生の歩み
セーレン・キェルケゴールは1813年5月5日、コペンハーゲンで裕福な羊毛商人の末子として生まれた。父ミカエルの厳格なキリスト教信仰と憂鬱な性格は、後のキェルケゴールの思想形成に決定的な影響を与えた。
幼少期に母と5人の兄弟姉妹が相次いで亡くなる悲劇を経験した。父は自らの過去の罪に対する神の罰だと信じ、この「家族の呪い」の意識はキェルケゴールの不安と罪意識の哲学の源泉となった。
コペンハーゲン大学神学部に入学したが、当初は放蕩な生活を送り、負債を重ねた。しかしこの時期にヘーゲル哲学と出会い、後にそれを批判する立場から独自の実存哲学を発展させた。
父ミカエルの死を経験し、深い宗教的回心を遂げた。莫大な遺産を相続し、経済的自由を得たことで、以後は著作活動に専念できる環境を得た。父との和解と死は彼の信仰を深める転機となった。
論文『イロニーの概念について』で神学博士号を取得した。ソクラテスのイロニーとヘーゲルのロマン主義的イロニーを分析し、真の主体的実存への道としてのイロニーの可能性を探求した。
17歳のレギーネ・オルセンに求婚し婚約した。しかし翌年、自らの憂鬱な性格と神への献身を理由に婚約を破棄した。この苦悩に満ちた決断は、彼の著作の中心的テーマとなった。
深い愛情にもかかわらず婚約を破棄し、レギーネに生涯癒えない傷を残した。この犠牲的な選択は「あれか/これか」の実存的決断の問題として、彼の哲学の核心的概念となった。
処女作『あれか/これか』を偽名ヴィクトル・エレミタで出版した。審美的実存と倫理的実存の対比を通じて、人生の根本的な選択の問題を探求し、実存主義哲学の基礎を築いた。
偽名ヨハネス・デ・シレンティオで『恐れとおののき』を出版した。アブラハムのイサク犠牲の物語を分析し、信仰の飛躍と「宗教的実存」の概念を提示した。
偽名ヴィギリウス・ハウフニエンシスで『不安の概念』を出版した。不安を人間の自由と可能性の表れとして分析し、20世紀の実存主義と精神分析学に大きな影響を与えた。
偽名ヨハネス・クリマクスで出版したこの著作で、「主体性が真理である」という命題を提示し、ヘーゲルの体系的哲学を批判して個人の実存的決断の重要性を強調した。
風刺雑誌『コルサール』との論争が公的嘲笑に発展し、コペンハーゲン市民からの継続的な嘲りを受けた。この経験は彼の「群衆」批判と個人の主体性の思想をさらに深めることとなった。
偽名アンティ・クリマクスで『死に至る病』を執筆した。絶望を「死に至る病」として分析し、自己と神との関係における信仰の回復を通じてのみ絶望を克服できると論じた。
かつての婚約者レギーネがフリッツ・シュレーゲルと結婚したことを知った。キェルケゴールは生涯レギーネへの愛を忘れず、死後に全財産を彼女に遺贈しようとしたが、彼女はそれを辞退した。
デンマーク国教会とその形式的なキリスト教に対する激しい批判を開始した。パンフレット『瞬間』を発行し、制度化された宗教を「キリスト教の歪曲」として糾弾した。
コペンハーゲンの路上で倒れ、フレデリック病院に運ばれた。脊椎の麻痺と診断されたが、正確な病因は不明のままである。彼は聖餐式を拒否し、牧師からではなく信徒から受けることを望んだ。
1855年11月11日、42歳の若さでコペンハーゲンで死去した。葬儀は彼の甥が抗議の演説を行う場となった。彼の思想は20世紀に「実存主義の父」として再評価され、サルトル、ハイデガーらに深い影響を与えた。
