反植民地政治、大衆演説、思想を融合させ、新たな共和国を打ち立てたカリスマ的なインドネシア民族主義者。
会話のきっかけ
人生の歩み
ジャワ人の教師ラデン・スケミ・ソスロディハルジョと、バリ島出身のヒンドゥー教徒の母イダ・アユ・ニョマン・ライの間に生まれた。幼少期にスカルノへ改名され、健康と幸運を願う家族の思いと結び付けられて語られた。
イスラム同盟の指導者の家に住み込み、近代政治を吸収しながら将来の活動家たちと議論を重ねた。スラバヤの環境は、演説力と、思想の異なる勢力をまとめる連携能力を磨いた。
のちの工科大学に入学し、土木工学を学ぶ一方で民族主義者のサークルに加わった。学生社会の熱気は、近代主義の発想、反植民地主義、大衆政治を一つの構想へとまとめ上げる助けとなった。
技術者資格を得た後、建築や建設の仕事に短期間就きつつ、政治活動を優先した。職業上の人脈や学生時代のつながりを活用し、反オランダの動員と宣伝の基盤を築いた。
漸進的な改革ではなく公然たる独立を掲げるため、インドネシア国民党の設立に関わった。植民地支配を道徳的・経済的危機として描く演説は、労働者、若者、都市中間層を引きつけた。
植民地政府は国民党など急進勢力への弾圧の中で彼を拘束した。法廷での弁論は政治宣言となり、裁判の場を使って独立要求を広い聴衆に訴えた。
裁判で「インドネシアは告発する」と題する弁論を行い、搾取と人種的序列を厳しく攻撃した。この演説は彼を国民的象徴へ押し上げ、群島各地の民族主義的語りを統合する力となった。
監視と拘束を繰り返された後、民族運動を弱めるため遠隔地へ追放された。主要都市から切り離されても、執筆や支持者の指導を続け、思想的メッセージを磨き上げた。
当局によりベンクルへ移送され、制限の中でも地域社会との結び付きを築き政治活動を続けた。この時期は、文化の多様さと、それを束ねる国家理念の必要性をいっそう強めた。
日本がオランダを駆逐すると、占領機構と協力して労働動員や民族組織の整備に関与した。戦時の激変を独立への道に変えようとしたが、この選択は後に論争を招いた。
将来の国家像をめぐる議論の中で、宗教、民族主義、社会正義を橋渡しする五つの原則としてパンチャシラを提唱した。この構想は、多元的な社会を一つに保つことを狙った。
一九四五年八月十七日、日本の降伏を受けて独立宣言を読み上げた。この瞬間は革命の始まりとなり、オランダの復帰の試みは長期の戦闘と外交へともつれ込んだ。
戦闘と国際的圧力の末、円卓会議でオランダ側は主権を認めた。彼は国家元首として台頭したが、新国家は連邦的枠組みや国内の分裂という難題に直面した。
各国指導者を迎え、植民地主義と冷戦の支配に対抗する場を築いた。会議は国際的地位を高め、非同盟の潮流に影響を与えた。
地方の反乱拡大と議会政治の分裂が、非常措置へと彼を押しやった。戒厳令は軍の政治的役割を強め、自由主義的議会政治から中央集権的指導へ移る転機となった。
憲法制定議会の膠着を終わらせるため、布告で一九四五年憲法を復活させた。指導民主主義は大統領権力を集中させ、彼は軍、イスラム勢力、共産勢力の均衡を図ろうとした。
外交と圧力の末に西イリアンの行政権が移り、民族主義的威信は高まった。立法機関は彼を終身大統領に指名し、強権的傾向と指導者崇拝の色彩が強まった。
不透明なクーデター未遂を契機に、反共の粛清が全国的に拡大し、軍は急速に主導権を握った。彼の均衡戦略は崩れ、多数の死者が出て共産勢力は壊滅した。
最高機関は彼の権限を剥奪し、新体制を正式に発足させた。彼は厳しい制限下で暮らし、政治的同盟者や公的生活から隔てられたまま、評価をめぐる論争の中に置かれた。
長い闘病の末に死去し、晩年は実質的な自宅拘束と医療上の制約の中で過ごした。葬送は記憶の焦点となり、独立の功績と後年の権威主義をめぐる議論が続いた。
