太陽を止め、地球を動かした。人類を宇宙の中心から追い出した革命。
会話のきっかけ
人生の歩み
ニコラウス・コペルニクスはポーランド王国領トルンの裕福な商人の家庭に生まれた。父は銅商人で、母は富裕な商人家系の出身。四人兄弟の末っ子であった。
父の死後、母方の叔父ルーカス・ヴァッツェンローデの後見を受ける。叔父は有力な教会官吏で、後にヴァルミア司教となった。叔父は彼に優れた教育を受けさせた。
ヨーロッパ有数の天文学・数学研究の中心地であるクラクフ大学に入学。ここで初めて天文観測機器に触れ、天文学への生涯にわたる情熱が始まった。
イタリアに渡りボローニャ大学で教会法を学ぶ。ドメニコ・マリア・ノヴァーラのもとで天文学も学び、月によるアルデバランの掩蔽という初の記録された天文観測を行った。
教皇聖年にローマを訪問し、天文学と数学の講義を行ったと伝えられる。月食も観測し、後に地動説を支持する観測データの収集を続けた。
パドヴァ大学で医学を学び始める。この知識により後に叔父や他の教会関係者の侍医を務めることになる。この間も天文学研究を続けた。
フェラーラ大学で教会法の博士号を取得。約10年間イタリアでルネサンスの学問を吸収した後、ポーランドに帰国して聖職者としての経歴を始めた。
ポーランドに帰国し、叔父のヴァッツェンローデ司教の秘書兼侍医を務める。リズバルク・ヴァルミンスキの司教館に住みながら、フロンボルク大聖堂参事会員の職務を開始した。
叔父の死後、フロンボルクに永住。残りの人生の大半をここで過ごす。観測塔を建設し、参事会員の職務を果たしながら体系的な天文観測を開始した。
地動説仮説を概説した短い原稿『コメンタリオルス(小論)』を執筆し私的に配布。地球と惑星が太陽の周りを回るという革命的理論の最初の書面による発表であった。
プロイセン議会に貨幣改革に関する論文を提出し、通貨価値低下問題の解決策を提案。グレシャムの法則の初期の定式化を含む経済的洞察は、彼の幅広い知的能力を示した。
ポーランド・ドイツ騎士団戦争中、侵攻するドイツ騎士団に対するオルシュティンの軍事防衛を組織。学術的追求を超えた指導力と行政能力を発揮した。
貨幣理論とパン価格規制に関する経済論文を完成。経済問題に数学的厳密さを適用し、分析的思考の実践的応用を示した。
カトリック教会の暦法改革について諮問を受ける。正確な天文知識の必要性が認識されていた。自身の太陽理論はさらなる精緻化が必要と考え、直接参加は辞退した。
若きドイツ人数学者ゲオルク・ヨアヒム・レティクスがフロンボルクを訪れコペルニクスに師事。レティクスは彼の唯一の弟子となり、老齢の天文学者を説得して完全な著作を出版させた。
レティクスがコペルニクス理論の最初の印刷物である『第一解説』を出版。コペルニクスの思想を紹介するこの著作は、後に続く完全版出版への学術界の準備となった。
『天球の回転について』の原稿がニュルンベルクに送られ印刷。コペルニクスは出版をレティクスに委託したが、後に神学者アンドレアス・オジアンダーの手に渡った。
主著『天球の回転について』がついに出版。臨終の床で印刷本を受け取ったと伝えられる。地球が毎日自転し毎年太陽の周りを公転することを提唱した。
1543年5月24日、脳卒中の後に死去したと伝えられる。伝説によれば、臨終の床で印刷された著書を手渡された。フロンボルク大聖堂に埋葬され、2010年に遺骨が確認され名誉をもって改葬された。