サン・バルテルミの虐殺に悩まされた若き王。母親が糸を引く中でフランスを統治した。
会話のきっかけ
人生の歩み
シャルル=マクシミリアンは1550年6月27日、フランス王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの三男として生まれた。王位継承順位が低かったため、当初は王になることは全く期待されていなかった。
アンリ2世は馬上槍試合の事故で致命傷を負い命を落とした。シャルルの兄フランソワが王位を継承し、母カトリーヌが政治的影響力を急速に強めていった。この悲劇がヴァロワ朝の運命を大きく変えた。
フランソワ2世の早すぎる死により、わずか10歳のシャルルがシャルル9世としてフランス王に即位した。母カトリーヌ・ド・メディシスが摂政として政府を完全に支配し、実権を握ることになった。
カトリックとユグノー(プロテスタント)の間で宗教戦争が勃発した。シャルルの治世はこの残酷な宗教内戦によって特徴づけられ、フランス王国は深刻な分裂と混乱の状態に陥った。
シャルルは13歳で法的に成人と宣言されたが、母カトリーヌは引き続き政策を支配し続けた。彼は狩猟と詩作に強い興味を示したが、統治者としての才能や関心はほとんど見られなかった。
シャルルと宮廷は若き王を臣民に見せ、宗教派閥間の和解を試みるため、2年間にわたるフランス全土の大巡幸を行った。この壮大な旅は分裂した王国の統一を図る重要な試みであった。
モーの奇襲事件をきっかけに再び宗教戦争が勃発した。シャルルは次第にユグノーの指導者コリニー提督の影響下に入り、母カトリーヌとギーズ派を深く警戒させることになった。
シャルルはユグノーの指導者ガスパール・ド・コリニー提督と親密な関係を築き、彼を「父」と呼ぶようになった。この関係はカトリーヌとカトリック強硬派のギーズ家を深く警戒させた。
サン=ジェルマン和約により第三次宗教戦争が終結し、ユグノーに信仰の自由や安全保障都市など大幅な譲歩がなされた。カトリーヌは宗教間の和解のために尽力したが、根本的な緊張は続いた。
シャルルは神聖ローマ皇帝の娘オーストリアのエリザベートと結婚した。この結婚は幸福なものとなり、エリザベートは混乱した宮廷に安定をもたらす存在となった。
コリニー提督はシャルルの首席顧問となり、フランスを統一するためにスペインとの戦争を推進した。カトリーヌは息子への影響力を失いつつあることに深い危機感を抱いた。
シャルルの妹マルグリットがユグノーのナバラ王アンリと結婚した。この結婚式のためにユグノーの指導者たちがパリに集結し、後の悲劇の舞台が整えられた。
暗殺未遂によりコリニーが負傷した。シャルルは彼を見舞い正義を約束したが、カトリーヌとギーズ家はより包括的な解決策を画策していた。
1572年8月23日、シャルルはユグノー指導者の殺害を命じるよう説得された。その後に続いた虐殺はフランス全土で数千人の命を奪い、フランス史上最も暗い出来事の一つとなった。
虐殺はシャルルに深い心理的傷を残したと伝えられている。一部の記録では彼自身がユグノーを銃撃したとも言われる。彼の精神的・肉体的健康は急速に悪化していった。
ユグノーが生存をかけて戦い、戦争が再開された。ラ・ロシェル包囲は失敗に終わり、シャルルの健康状態は悪化の一途をたどった。
シャルルの唯一の嫡出子マリー・エリザベートが誕生した。彼には愛妾マリー・トゥーシェとの間に庶子シャルル・ド・ヴァロワもいた。
シャルル9世は1574年5月30日、結核により死去した。罪悪感と精神的苦悩が病状を悪化させた可能性がある。最期の言葉は虐殺への後悔を表したとされる。弟アンリ3世が王位を継承した。
