議会の父。反逆の伯爵、イングランドに代議制政府を与えた。
会話のきっかけ
人生の歩み
シモン・ド・モンフォールは1208年頃、フランスのモンフォール=ラモーリーで有力貴族の息子として生まれた。父は同名のシモン・ド・モンフォールで、アルビジョワ十字軍を率いた著名な軍事指導者だった。
祖母の権利を通じてイングランドのレスター伯爵位を主張し、最終的に承認された。これにより彼はイングランド貴族社会に参入し、ヘンリー3世の宮廷で影響力を持つようになった。
ヘンリー3世の妹エレアノール王女と秘密裏に結婚した。この結婚は国王の許可なく行われたため大きなスキャンダルとなったが、最終的にヘンリー3世は二人の結婚を承認した。
イングランド王領ガスコーニュの総督に任命された。彼は反乱を鎮圧するために厳しい手段を用いたが、その残虐さは批判を招き、1252年に帰還を命じられることとなった。
国王ヘンリー3世の無能な統治と浪費に対する不満が高まり、シモンは改革派貴族の指導者として頭角を現した。国王の外国人顧問への依存と課税政策が批判の焦点となった。
シモンを中心とする改革派貴族が「オックスフォード条項」を制定させ、国王の権力を制限する評議会を設置した。これは英国憲政史上の画期的な文書であり、議会制民主主義の先駆けとなった。
国内の政治的混乱と王党派との対立が激化する中、一時的にフランスへ亡命した。しかし改革派貴族たちの要請により1263年に帰国し、反国王運動の指導者として復帰した。
1264年5月14日、ルイスの戦いで国王ヘンリー3世と王太子エドワードを破り、二人を捕虜とした。この決定的な勝利により、シモンは事実上のイングランド支配者となった。
ルイスの戦いの後、「ミセ・オブ・ルイス」と呼ばれる和平協定を締結した。この協定により国王は評議会の決定に従うことを約束し、シモンの改革路線が確立された。
1265年1月、シモンは史上初めて貴族と聖職者だけでなく、各州から騎士と各都市から市民の代表を含む議会を召集した。これは現代の英国議会の原型となり、代議制民主主義の始まりとされる。
捕虜となっていた王太子エドワードが監視を逃れて脱走に成功した。エドワードは直ちに王党派軍を組織し、シモンに対する反撃を開始した。事態は急速に悪化していった。
1265年8月4日、イーヴシャムの戦いでエドワード王子率いる王党派軍に敗北し戦死した。彼の遺体は四分割され、各地に晒された。しかし民衆は彼を殉教者として崇め、墓は巡礼地となった。
シモン・ド・モンフォールの死後、彼が開いた議会の形式は継続され発展した。彼は「議会制民主主義の父」として英国史に記憶され、現代の代議制政治の先駆者として評価されている。
