猿楽を日本最高の舞台芸術である能へと昇華させた能楽の大成者。著書『風姿花伝』は能の美学の基盤として今なお読み継がれている。
会話のきっかけ
人生の歩み
結崎座の座長であった観阿弥の子として藤若の名で生まれる。幼少より歌舞音曲の世界に浸り、神聖なる演劇芸術の修行に励んだ。
今熊野神社において足利義満の前で猿楽を演じた。若き将軍は美しき少年の演技に魅了され、やがて日本の演劇を一変させる庇護が始まった。
将軍義満の側近として親密な関係を築いた。この関係は一部の貴族の顰蹙を買ったが、公家文化、禅の哲学、洗練された美意識に触れる類まれな機会を得た。
巡業中に父観阿弥が死去。弱冠二十一歳で一座を継ぎ、父の革新的な猿楽の伝統を守り、さらに高みへと導く重責を担った。
能の演目を体系的に創作・洗練する作業を始めた。猿楽を洗練された芸術としての能へと昇華させ、公家の歌、仏教哲学、幽玄の美学を取り入れた。
畢生の大作『風姿花伝』を完成させた。能に関する最も重要な理論書であり、演技における「花」の奥義を秘伝として書き記した。
将軍義満が薨去し、庇護の黄金時代が終わりを告げた。世阿弥は演じ、書き続けたが、最大の後ろ盾を失った。政治情勢は不穏な方向へと傾いていった。
『花鏡』を著し、能の演技の最深奥を探求した。「離見の見」すなわち観客の視点から自らを観るという革新的な演技理論を説いた。
観世座の座長を息子元雅に正式に譲った。しかし自らも演じ、書き続けた。次世代へ芸を伝えるため、理論書の執筆に一層力を注いだ。
将軍義教は世阿弥の甥である音阿弥を公然と贔屓し、老いた名人を辱めた。世阿弥は重要な祭礼での演能を禁じられ、誇りと名声に深い傷を負った。
愛する息子であり後継者であった元雅が巡業中に急逝し、世阿弥は深い悲しみに沈んだ。選んだ後継者を失い、芸の伝承が危ぶまれた。晩年の著作に悲嘆を注いだ。
将軍義教により辺境の佐渡島へ流された。その理由は政治的なものか、個人的な遺恨か定かではない。七十一歳にして、当代最高の芸術家は京を遠く離れた厳しい孤独の地に追われた。
流罪の身でありながら世阿弥は筆を執り続けた。『金島書』を著し、喪失から得た明晰さをもって芸を省察した。その著作はより精神的で超越的なものとなった。
将軍義教が暗殺された後、世阿弥は赦免され流罪から帰還を許された。晩年は京で過ごしたと思われるが、詳細は不明である。おそらく波乱の運命と和解し、安らぎを得たのであろう。
世阿弥は八十歳頃に世を去った。約五十の能楽作品と二十一の理論書を遺した。彼の芸は迫害を生き延び、彼が創設した観世流は今日なお最大の能楽流派として、六百年を経てもなお花を咲かせ続けている。
