不屈の労働運動家。非暴力の抗議を、農場労働者の権利と尊厳を守るための持続的な力へと変えた。
会話のきっかけ
人生の歩み
一九二七年三月三十一日、アリゾナ州ユマでリブラドとフアナの子として生まれた。大恐慌ののちに一家が住まいと基盤を失った経験は、農場労働者の貧困と権利に生涯向き合う原点となった。
農地と商いを失ったのち、一家はカリフォルニアの畑へと流れる移動労働者の列に加わった。過酷な住環境と低賃金は、生産者や仲介業者による搾取の現実を彼に突きつけた。
家計を支えるため、八年生相当の学年のころに学校を離れて農作業に専念した。転居の多さとメキシコ系の子どもへの差別は、社会正義を求める決意をいっそう強めた。
第二次世界大戦末期にアメリカ海軍で勤務した。この経験は公共への奉仕観を広げたが、帰還後は国内の不平等を変える決意を新たにした。
組織化の生活を支える確かな伴侶となるヘレン・ファベラと結婚し、八人の子どもを共に育てた。家族の日々は運動の犠牲と長い闘いと深く結びついていた。
組織者フレッド・ロスに誘われ地域奉仕組織に加わり、戸別訪問の組織化や指導者育成を学んだ。有権者登録、差別反対、地域の市民参加に取り組んだ。
全国責任者として複数都市の組織化を統括した。この役割で戦略性が磨かれ、農場労働者には独立した組合が必要だという確信を深めた。
ドロレス・ウエルタと共に全国農場労働者協会を設立し、のちの統一農場労働者組合の芽を育てた。資金が乏しい中でも、家での集会と会費を軸に会員主体の組織を築いた。
農業労働者組織委員会のフィリピン系労働者がストライキを開始すると、彼は自らの組織を連携させた。この協力は闘いの裾野を広げ、規律ある非暴力の組織化を前面に押し出した。
カリフォルニア州都へ向けた三百マイルの巡礼行進を率い、農場労働者の要求を世に示した。行進は聖職者や学生、報道の注目を集め、争議を道徳と公民権の問題として位置づけた。
協会は他の組織化の取り組みと合流し、統一農場労働者組合として交渉力を強めた。黒い鷲の旗と合言葉は運動の象徴として広く知られるようになった。
緊張の高まりと逮捕が続く中、非暴力を再確認するため二十五日間の断食を行った。上院議員が訪れ、農場労働者の闘いへの全国的な関心が一段と高まった。
長年の組織化と消費者不買を経て、主要なぶどう生産者が組合契約に署名した。賃金や福利厚生、労働条件が改善され、労働争議における不買の力が証明された。
取り組みをレタスなど他の作物にも広げ、畑から遠い都市でも支援者を動員した。彼は教会、労組、学生との連帯を重視し、大手農業企業への圧力を強めた。
カリフォルニア州は農場労働者の組合選挙のための州制度を定める法律を制定した。法整備は労働者と支援者の長年の圧力の成果だったが、執行や政治をめぐる対立も続いた。
農場労働者とその子どもへの農薬曝露と健康被害を強く訴えた。より厳しい保護を求めて不買を再活性化し、職場の安全と消費者の責任を結びつけた。
農薬と畑の環境に注意を向けさせるため三十六日間の断食を行い、その後は健康上の理由で終了を勧められた。政治家や宗教指導者が訪れ、断食は全国的な道徳的訴えとなった。
一九九三年四月二十三日、組合に関わる法的案件と結びついた滞在中にアリゾナ州で亡くなった。死は広い追悼を呼び、組合は彼の名と伝統のもとで組織化を続けた。
