死なない狂気の修道士。シベリアの神秘主義者、皇后への影響がロシアを破滅させる一因となった。
会話のきっかけ
人生の歩み
グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンはシベリアの辺境の村ポクロフスコエの農民の家に生まれた。幼少期は貧困とロシア農村生活の過酷な環境に彩られていた。
ラスプーチンの兄ドミトリーが川の事故で溺死した。この悲劇的な喪失は幼いグリゴリーに深い影響を与え、後の霊的探求へと導くきっかけとなったとされる。
ラスプーチンは同じ村の農婦プラスコーヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚した。二人の間には成人まで生き延びた3人の子供、ドミトリー、マリア、ヴァルヴァーラが生まれた。
ラスプーチンは家族を離れ、ストランニク(放浪する聖なる巡礼者)となった。ロシア各地の修道院を巡り、ギリシャのアトス山にも訪れたとされ、神秘主義的な信仰を発展させた。
ラスプーチンはウラル山脈のヴェルホトゥリエ修道院で数ヶ月を過ごした。ここで宗教的実践を深め、治癒能力を持つ聖人としての評判を築き始めた。
ラスプーチンは初めて帝都サンクトペテルブルクを訪れた。シベリアの神秘家にして治癒者としての評判が、首都の宗教界に広まり始めた。
ラスプーチンは教会関係者を通じてニコライ2世と皇后アレクサンドラに紹介された。血友病を患う皇太子アレクセイへの助けを切望していた皇帝夫妻は、即座に彼に惹きつけられた。
幼いアレクセイが重度の出血発作を起こした際、ラスプーチンは祈りによって出血を止めたように見えた。この奇跡的と思われた治癒が、皇室における彼の地位を確固たるものにした。
ラスプーチンは皇室への定期的な出入りを許されるようになった。皇后は彼を神の人であり息子の神聖な守護者と見なしたが、批判者たちは彼の影響力と行動に疑問を呈し始めた。
性的不品行とフルィストゥイ派への所属の告発に直面し、ラスプーチンは教会当局の調査を受けた。スキャンダルを避けるため一時的に故郷の村に追放された。
狩猟旅行中にアレクセイが内出血で瀕死となり、医師たちは諦めた。ラスプーチンは少年が回復すると電報を送り、その通りになった。彼の影響力は揺るぎないものとなった。
ライバルの修道士の信者であるヒオニア・グセヴァという女性がラスプーチンの腹を刺した。彼は瀕死の重傷を負ったが手術後に回復し、自らの生存を神の加護の証と見なした。
戦争が迫る中、ラスプーチンは繰り返し皇帝に参戦しないよう警告し、それがロシアとロマノフ王朝に災いをもたらすと予言した。しかし彼の警告は聞き入れられなかった。
ニコライ皇帝が前線にいる間、皇后アレクサンドラは政府問題でラスプーチンの助言に大きく依存した。彼は大臣の任命に影響を与え、貴族の間に怒りを引き起こした。
ラスプーチンは貴族に殺されれば皇帝一家は2年以内に生き延びられないだろうと予言する手紙を書いた。この不気味な予言は革命後に驚くほど的中することになった。
ロシアが軍事的敗北と食糧不足に苦しむ中、ラスプーチンは国家の不幸の身代わりとなった。皇后との関係やドイツへの同情の噂が大衆の怒りを煽った。
1916年12月30日、フェリックス・ユスーポフ公爵ら貴族がラスプーチンをユスーポフ宮殿に誘い出した。毒入りケーキが効かず、複数回銃撃され、最後にはネヴァ川に投げ込まれて溺死した。
