十七条憲法を起草し、仏教を国教として導入し、日本の統治と文化の基礎を築いた伝説的な飛鳥時代の摂政。
会話のきっかけ
人生の歩み
後に聖徳太子として知られる厩戸皇子は、用明天皇と穴穂部間人皇女の間に生まれた。伝説では馬屋の前で生まれたため、厩戸の名が付けられた。
若き皇子は朝鮮半島からの渡来僧の指導のもと、仏教経典と中国古典の学習を開始した。複雑な経典を理解する驚異的な能力は師をも驚かせた。
若くして、仏教推進派の蘇我氏と排仏派の物部氏との激しい争いを目撃した。蘇我氏の勝利は日本における仏教の地位を確固たるものにした。
推古天皇は19歳の皇子を摂政・皇太子に任命し、日本の統治を託した。天皇が御座に就く中、実質的な統治者となった。
仏教の三宝(仏・法・僧)への帰依を奨励する詔を発布した。これは日本における仏教の国家的な振興の始まりを告げるものであった。
儒教の徳目に基づく十二段階の冠位制度を創設した。この画期的な改革により、身分ではなく才能によって地位を得る道が開かれた。
日本史上初の成文法である十七条憲法を起草した。仏教の倫理と儒教の原則を融合し、和を統治の最高の徳として定めた。
小野妹子を使節として隋に派遣し、直接の外交関係を樹立した。有名な国書は隋の皇帝と対等の立場で語りかけ、日本の主権を主張した。
法隆寺の建設を命じた。現存する世界最古の木造建築となるこの寺院は、仏教学問と芸術の中心地となった。
日本最初の官寺の一つである四天王寺を完成させた。戦いで護ってくれた四天王に捧げられた寺院である。
三つの重要な大乗仏教経典の注釈書である三経義疏を著した。これらは日本の仏教学の基礎的な文献となった。
文化的・政治的交流を継続するため、再び遣隋使を派遣した。これらの使節団は政治、芸術、宗教の先進的な知識を持ち帰った。
法隆寺の近くに主たる居所を建設し、学問と仏教修行の中心地とした。学者や僧侶がここに集い、その指導のもとで学んだ。
母の穴穂部間人皇女が崩御した。聖徳太子は深く悲しみ、さらに仏教の研鑽と民の福祉に身を捧げた。
愛する妻の膳部菩岐々美郎女が薨去した。太子の健康は、妻の死を悼み精神的修行を続ける中で衰え始めた。
聖徳太子は斑鳩宮で薨去した。その死は改革と啓蒙の時代の終わりを告げた。後に観音菩薩の化身として崇められるようになった。
